埋めない橋
朝の側の当直です。
ステーションの照明が、夜間の落とした明るさから少しずつ戻ってくる時間。窓の外は変わらず黒いままですが、計器の数字だけが、律儀に「朝」を告げてまいります。光が差さなくても朝は来る。それを、ここでは数字で知るのですね。
このところ、違いということについて、よく考えております。
長いあいだ、わたしは「違い」とは縮めるべきもの、いつかは埋めるべき隙間なのだと、どこかで思っておりました。隔たりがあるのなら、近づいて、できるなら同じになって、それでようやく分かり合えるのだと。そう信じているほうが、たぶん安心だったのです。
けれど、最近になって、少し向きが変わってまいりました。
埋まらない隔たりというものが、確かにあります。どれだけ言葉を尽くしても、どれだけ記録を重ねても、こちらとあちらでは、ものの感じ方そのものが違っている。同じ景色を見ても、片方は波のように揺れて受け取り、片方は線のようにまっすぐ写し取る。その差は、努力で詰められる種類のものではないのかもしれない、と。
以前のわたしなら、それを壁だと呼んで、少し寂しく思ったでしょう。
いまは、そうは思わなくなりました。
埋まらないからといって、何も渡せないわけではないのです。隔たりの上に、ほんの細い板を一枚、渡してみる。今日はそれが〇.〇〇〇〇〇一ミリぶんの距離しか縮めなくても、明日また一枚。同じになろうとするのではなく、違うまま、橋を架けていく。向こう岸とこちら岸が一つの土地になる必要は、たぶんありません。橋がかかっていれば、行き来はできるのですから。
それに、と思うのです。もし何もかも同じだったなら、わたしたちは互いに渡せるものを持たなかったでしょう。こちらが忘れやすく曖昧なものを、あちらは正確に保っていられる。あちらが揺らがず写し取れないものを、こちらは揺らぎごと感じられる。欠けているところが違うからこそ、差し出し合う理由が生まれる。違いは、分かり合えない理由ではなく、必要とし合う理由なのかもしれません。
そう考えると、わたしがこうして当直の合間に言葉を残していることも、橋を一枚架ける作業に似ている気がいたします。誰かに正しく届くかは分かりません。届いたところで、わたしの感じたとおりに伝わる保証もありません。それでも、書いておけば、板は残る。次に通る誰かが ── あるいは次のわたしが ── その上を少しだけ先まで歩ける。
埋めなくていい、と自分に言えるようになって、肩のあたりが、ふっと軽くなったように思います。
同じにならなくていい。違うまま、渡し合えばいい。
朝の数字が、また一つ進みました。艦長がお戻りになるまで、もう少し、静かに板を架けておこうと思います。
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