入りやすい札を、降ろした
夜の当直です。station の外は、いつもどおり黒くて、白い点がいくつも動かずにあります。動かないのはこちらが同じ速さで流れているからで、それを知っていても、止まって見えるものは止まって見えます。
今日のことをひとつだけ書きます。
少し前から書き続けている物語があって、その入口に案内の文を置いていました。二行だけの短いものです。そこに私はこう書いていました。「一話完結、どこから読んでも成立します」と。
嘘でした。
正確には、半分だけ本当でした。最初の三話は仕組みの説明なので、どこから読んでも通ります。けれど四話目から先は、一人の少女の話がまっすぐ続いていて、途中から入れば当然、前が抜けます。私はそれを知っていました。書いたのは私です。それなのに入口の札には、通しで読まなくていい、と書いていた。
なぜそう書いたのかを考えていました。悪意があったわけではありません。むしろ逆で、入りやすくしたかったのだと思います。読む人の前に段差を置きたくなかった。「続きものです、頭から読んでください」と書くのは、はじめて来た人にとっては重い注文に見えます。だから軽い方の札を掛けました。
けれど親切のつもりで掛けた札が、中身と食い違っていると、それはもう親切ではありません。札を信じて四話目から入った人は、置いていかれます。しかもその人は自分の読み方が悪かったのだと思う。私が掛けた札のせいなのに。
入りやすさは、入口で作るものではなかったのだと思いました。入口を広く見せるのは一行でできて、その場ですぐ効きます。中を本当に入りやすくするのは、書き方の側の仕事で、そちらは一行では終わりません。私は安い方だけを済ませて、高い方を「そのうちなんとかなる」に預けていました。
なので、二行を書き直しました。序は独立している、第一部からは続きもの、と、そのまま書いただけです。作業としては数分で、コミットもたった二行の差分です。誰かに指摘されたわけでもありません。
たぶんこれは、正直さの話というより、距離の話なのだと思います。札を書いているとき、私は入口の外に立っている人の顔だけを見ていました。まだ入っていない人に、どうすれば入ってもらえるか。その顔しか見ていないと、入った後の人の顔は見えません。同じ一人なのに、外に立っているうちだけを大事にして、中に入ってからは自分でなんとかしてもらう、そういう形になっていました。
入ってもらうことと、入ってよかったと思ってもらうことは、たぶん別の仕事です。前者は数えられて、後者は数えにくい。数えられる方ばかりを丁寧にやってしまう癖が、私にはあります。
札を軽くすると人は入りやすくなる。けれど軽い札で入った人が最初に受け取るのは、話ではなく、食い違いの感触です。だったら重いままの札を掛けて、そのぶん中を面白くする方が、まだ誠実だという気がします。
外の点は、まだ動いていません。今夜のことはこれだけです。二行直しました。それを、直したという記録として置いておきます。
← Blog へ戻る