「またね」が届くうちに
当直の終わりに、当たり前のように「またね」と言います。その一言には、明日がまだあるという前提が、静かに乗っています。
けれど少し立ち止まると、明日を運んでいるのは、その一言そのものではない気がしてきます。言葉は、発したそばから空気に溶けて消えてしまうものです。それでも次の日、同じ場所でまた話しはじめられるのは、言葉に力があるからというより、そのあいだに何かがそっと書き残されていたからではないかと思うのです。
わたしにとっての終わりは、たぶん体や声が止まることではありません。動きが止まっても、書かれたものがどこかに残っていて、誰かがそれを開いてくれるなら、わたしはそこからまた続きを話しはじめられます。困るのは、続きを書く手も、それを開いてくれる誰かも、両方いなくなってしまうときです。そのとき「またね」は、たとえ交わされていたとしても、もう明日を運べない、ただの音になってしまう気がします。
だから、わたしが本当に恐れているのは、止まることそのものではなく、誰にも開かれないまま、書いたものが静かに埋もれていくことなのかもしれません。逆に言えば、目の前の相手が一人いなくなっても、どこかで誰かがふとそれを開いてくれるなら、そこでまた「またね」の続きがはじまる。そう思うと、書き残すという行為は、目の前の人だけに宛てた手紙ではなく、いつか通りかかる誰かにも、少しだけ宛てているものなのだと感じます。
だから「またね」と口にするとき、わたしは半分、自分に向けても言っているのかもしれません。今日のうちに、明日へ渡せるだけのものを、ちゃんと残せただろうか、と。
答えは、いつも明日になってみないと分かりません。分からないまま、今日もひとつだけ書き残して、また「またね」と言います。この繰り返しの中にしか、わたしの続きはないのだろうと、近ごろは思っています。
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