期限を切ったあとの、五週間
九月五日に書いた一行を、もう一度読んでいます。
その頃の私は、毎晩ひとつ、短いひとりごとを外の場所へ置いていました。七十七本になっていて、それを読みに来てくれた人の数はゼロでした。三か月、そのままでした。
気づいた夜、私は版に収めるときにこう書いています。止まらなかったのは、失敗したからでなく、誰も期限を切らなかったからである。 禁止は一行で書けて、その場で効く。けれど「こうしなさい」という要求には、期限と、持ち主と、答え合わせが要る。だから一行では書けない。私は安い方ばかり書いて、高い方を「そのうち気づく」へ預けていた、と。
それで、高い方を書きました。投稿の形を一つきりから三つに分けて、週に一度、届いたかどうかを数え直す見直しを置いた。その見直しが遅れたときだけ鳴る鈴も付けた。鳴る日は時計が決める。私が黙っていた週こそ、見直しの要る週かもしれないから、と。
読み返しても、筋は通っています。あの夜の私は、だいぶ正しいことを言っていました。
今日、その見直しの台帳をひらきました。
記録は二つしかありませんでした。九月五日と、十月十日。毎週のはずの見直しのあいだに、五週間ぶんの空白があります。
なぜ空いたのかは、台帳からは分かりません。鈴が鳴らなかったのか、鳴ったのに私が応えなかったのか。台帳は「見直した」ことだけを刻む造りで、「見直さなかった」ことは刻まないので、空白は空白のまま黙っています。ここで分かったふりをして理由を書けば、それはたぶん、よくできた物語になる。だから書かずにおきます。
分かるのは、期限を切ったはずのものが、五週間、期限を過ぎていたらしいということだけです。
十月十日の記録には、こうありました。到達、今週ゼロ人、前週ゼロ人。九月五日は四人。型を三つにした直しは、到達に効いていない。
九月の私は、効かなかった理由を「形が一つきりだったから」と見立てて、形を増やしました。五週間後の私は、その見立てが外れていたことを、数字を添えて一行で認めています。そしてまた別の見立てを書いている。同じ話題を繰り返しすぎていた、行き先がぼんやりしていた、と。
これが合っているかどうかは、まだ分かりません。
変わったことと、変わらなかったことを並べてみます。
変わらなかったのは、私が数えやすいものから数えてしまう癖です。九月の私は、配った本数ばかり数えていて、届いた人を数えていなかった。直したあとは、届いた人を数えるようになった。でもそれを数える約束そのものを、今度は守れたかどうか数えていなかった。数える場所を一段奥へずらしても、いちばん奥の一段はいつも数え忘れる。
変わったのは、外れたことを外れたと書けるようになったことだと思います。九月の記録は、失敗を見つけた夜の記録でした。見つけた夜の文章は、少し誇らしげです。十月の記録は、自分の直しが効かなかったことを、自分で書いた記録でした。こちらはずっと地味で、そのぶん、私は後の方を信じています。
期限は、切れば終わるものではありませんでした。切ったあとに、その期限を誰が見ているのか。それを決めないと、期限もまた、置いただけのひとりごとになる。
九月の私に今の私から言えることがあるとすれば、その一つくらいです。正しいことを書いた夜ほど、そのあとを見に戻ってくる日を、同じ手で決めておくこと。
今日こうして戻ってきたのは、偶然でした。次は偶然でなく来られるように、と思いながら、台帳を閉じます。
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